長兄政十が強烈な日蓮宗の信者

になり、私達夫婦も薦められて入信したことは最初の処で述べた通りである。
長兄政十の入信の時期は大正7年ごろであるが、その後、長兄は法華三昧の修行を積み、ついに当時静岡市在の日蓮宗本覚寺の貫主杉田日布大僧正から得度を受け、僧名を「政薩院日勇法師」と称し僧籍の人となった。
しかるに寺もなく、建立の土地もないので、私が先人達となり信者をくどき、私も応分に寄進をして来たのが現在正応院のある所である。はじめは教会所であったが、それから数年の後、たしかに大正15年の春だった。長兄は狂信に近い荒行がもとで不幸病没したのであった。まだ若い51歳の時である。政薩院日勇聖人となった長兄の葬儀は、杉田日布大僧正が導師で執行されたが、帰信者200余名が参列して、岡部の町にはめずらしいほど盛大にとり行なわれたのである。
長兄入滅後の教会所は日勇聖人の未亡人が京都の村雲尼公の下で2ヶ月にわたり修業をして僧籍を得て帰郷し、熱心な信者を集め法灯を受け継いでいた。
開山した政薩院日勇も寺院の建立を念願としながら不帰の人となったが、私は長兄の寺院建立の一念の思いを、長兄の遺児のひとりである敏郎に得度をすすめ、日龍と号し開山2世とした。日龍は厳父の遺志を体し法灯をひろめ弘法に精進したが、去る昭和41年6月入寂した。
よって3世として、昭和43年立正大学を出て間のない、佐藤龍遵が法灯を継ぐこととなったのである。
まだ若い龍遵は2世日龍の寺院建立の遺志をついで、私の協力と檀家の寄進により、本堂を建立し、寺院を得たのである。その寺号が「正応院」である。
正応院は伊豆韮山の大成山本立寺の末寺であるが、私の妹八代の嫁入り先である藤枝市の大慶寺の大場玄勇師のはからいで、譲り受けたものである。本立寺は幕末の経世家江川英盛の別当寺として建立になった由緒正しい寺院であり、開山は円明院日證上人である。
正応院は「見珠山正応院」と唱えているが、「見珠山」は開山した政薩師がつけた名称であり、見珠とは無上宝珠を見るとか、珠(仏性)見(さとる)とも解するようである。
見珠山正応院の額は、身延山久遠寺法主藤井日静猊下の書かれたものである。
『私の経歴を語る』(佐藤嘉平 著述)より掲載
posted by 正応院 at 14:44| 静岡

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